2021年5月23日です
鎌倉西御門の奥
北条義時法華堂跡に行きました
鎌倉の北条義時の墓
北条義時ゆかりの地です
最初の鎌倉幕府のあった大蔵幕府を見下ろすところとはいえ、少し奥まった目立たないところにあります
Contents
北条義時の墓 北条義時法華堂跡へ 跡地は何もない平場でした
北条義時の墓 ゆかりの史跡 覚園寺から北条義時法華堂跡へ
NHK大河ドラマ 鎌倉殿の13人の主人公 北条義時
北条義時の建立した二階堂の覚園寺大倉薬師堂から鎌倉宮前を通り、東御門跡を経由してきました
東御門の史跡案内石碑
東御門は鎌倉幕府(大蔵幕府)の東側の門
今の清泉小学校一体が最初の鎌倉幕府でした
その大蔵幕府の背後にある山の中腹の平場が源頼朝と北条義時の法華堂の跡です
北条義時法華堂跡への小道
もともと人通りが多くないところだと思いますが、東御門から行く人はあまり多くはないと思います
鎌倉駅に近い西御門から源頼朝の墓・源頼朝法華堂跡を通って行く方がわかりやすいでしょう
旧村上邸の裏に小道があります
そして小道の脇にあるのが村田清風句碑
こちらが北条義時法華堂跡地へのぼる東側の階段です
村田清風は江戸後期の長州藩の武士
維新の志士を育てた道場を開いた方です
北条義時法華堂跡 何もない平場
句碑の横の階段をのぼると北条義時法華堂跡です
北条義時法華堂の跡地は開けていますが、何もない平場でした
NHK大河ドラマの鎌倉殿の13人で訪れる方が増えるでしょう
北条義時の墓 法華堂跡から大蔵幕府跡をのぞむ
北条義時法華堂跡 西側の階段に案内板
東側の階段をのぼってきましたが、西側にも階段があります
そしてこちらには鎌倉市の史跡の案内板があります
吾妻鏡に源頼朝法華堂の東側に新法華堂を建てたと記されていることが書いてあります
国指定史跡としては、法華堂跡で隣の源頼朝の墓とこちらの北条義時の墓がひとつにまとめられているのでしょうか
清泉小学校 大蔵幕府跡
北条義時法華堂跡から見えるのは大蔵幕府跡に建つ清泉小学校です
この一帯が最初の鎌倉幕府があった場所です
東側の階段のほうがきれいに整備されています
北条の2代執権北条義時の墓なのですが、今は何もない平場なのでした
静岡県伊豆の国市の義時が創建した北条家の菩提寺北條寺には義時夫婦の墓があります
北条義時法華堂跡
【住所】 日本、〒248-0004 神奈川県鎌倉市西御門2丁目5
詳細情報・口コミは地図をクリックしてご覧ください
こちらは北条義時法華堂にくる前に寄った義時が建立した大倉薬師堂の地にある覚園寺です
北条義時法華堂跡の奥 大江広元の墓
大江広元 鎌倉殿の13人のひとり
北条義時法華堂跡地の奥の上には、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓があります
鳥居の奥の急な階段をのぼると墓が3つ並んでいます
こちらは源頼朝の法華堂跡の白旗神社のところにある案内板の相模風土記の絵です
階段の上に、広元墓と忠久墓と書かれています
左側の源頼朝墓が源頼朝法華堂跡です
この絵には北条義時法華堂が描かれていませんが、法華堂跡地であったことが知られていなかったのでしょうかね
上には、3つ墓が並んでいます
相模風土記の絵とは並びが違うようですが、真ん中が大江広元、左が毛利季光、右が島津忠久とのことです
また墓の前が広く描かれてますが、今はだいぶ狭かったです
大江広元は公家出身で源頼朝に招かれて公文所開設時の別当となった人
公文所を政所に改めてからも初代別当となっている源頼朝の側近、鎌倉幕府の重要人物です
鎌倉殿の13人の13人の合議制の一人でもあります
こことは別に十二所にも大江広元墓と伝えられているところがあり、大江広元の神社もあります
大江広元の墓と並ぶ 毛利季光・島津忠久の墓
毛利季光は大江広元の息子で長州藩の毛利氏の祖ですが、宝治合戦のときに三浦氏側につき敗北して自刃しています
島津忠久は頼朝に重用された鎌倉の御家人、島津荘の地頭となった後に島津を名乗るようになった薩摩藩の島津家の祖です
鎌倉時代に全国各地の守護や地頭に任じられたという例は多いようです
承久の乱以降の鎌倉幕府により西国支配でも相模との縁が広がっているのですね
句碑の村田清風は長州藩の藩士でしたから大江広元の墓の修理に来ていました
白旗神社のところにある案内板には島津忠久の墓と大江広元の墓と北条義時の墓が掲示されています
毛利季光の墓が書かれていないですが場所は同じです
島津忠久の墓と大江広元の墓は江戸後期(十代〜十一代将軍のころ)にこの場所に作られたもので、毛利季光の墓は大正時代にここに移されたものだそうです
薩長の薩摩島津の祖の忠久の墓と長州毛利の祖の広元・季光の墓、源氏将軍に使えた武家を祖としてもつ家柄同士が並んでいるのですね
北条義時法華堂跡は、この白旗神社のほうから行く人が多いでしょう
北条義時法華堂跡 三浦一族のやぐら 三浦一族の墓
宝治合戦で破れた三浦一族のやぐら 三浦一族の墓
鎌倉幕府の有力御家人で大きな権力を持っていた三浦氏の一族
13人の合議制にも三浦義澄が入っています
三浦義澄の子が三浦義村で三浦氏の隆盛を極めます
義村の子が三浦泰村です
宝治合戦(1247年)は、5代執権北条時頼のときに起こり、三浦泰村ら三浦一族は源頼朝の墓の前、法華堂に集まり自刃しています
北条義時法華堂の奥、大江広元の墓への階段の左横にある小さな穴が三浦一族のやぐらです
やぐらの前にも法華堂跡のまわりにも、三浦一族のやぐらと示すものは何も見当たりません
やぐらの中の卒塔婆にはあるのですけれど、まわりには何もないのです
ただ、白旗神社の横にある史跡案内石碑には、三浦泰村と三浦一族が北条に攻められ、この地で自刃し地に染まったことが書かれています
三浦一族の滅んだ三浦一族のやぐら、新田義貞に攻められ鎌倉幕府終焉時に北条一族が滅んだ北条高時の腹切りやぐら
どちらも今はひっそりとした場所で訪れる人もあまり多くないところですが、鎌倉時代に大きな力を持っていた一族が滅ぶという悲惨な歴史の痕跡を残しているやぐらです
鎌倉 歴史とゆかりの地 史跡を歩く 日帰り観光
鎌倉殿の13人
北条義時法華堂は北条義時ゆかりの地です
歴史に登場する人物のゆかりの地となる史跡も多い鎌倉です
お寺、神社、史跡、歴史、ゆかりの地を歩くコースガイド
日帰り観光、ウォーキング、ハイキングに最適です